長編歴史ファンタジー小説「薔薇の使命 -Rosa’s Mission- 」掲載開始します!
***ROSETREE STUDIO が贈る薔薇物語***
吊り香炉から、えも言われぬ香の薫り。 薬玉のように丸いその香炉には、優美な草花紋様が施されている。 沈香、白檀の他、様々な草根木皮を加え、時平のために特別に調合された匂いが、空間を染めるように漂っている。 時平はこの匂いをことのほか好んだ。 彼の居た場所、通った所には、必ずこの匂いが佇んでいた。 ひらがなをこよなく愛し、日本の文化復興を願い、古今和歌集を編纂した若き藤原家の御曹司。
その時平が今、虫の息で床に伏している。 彼を囲むように藤原一族、家臣、女房らが一同に並ぶ中、一番後方に座している男は口を真一文字に結び、身じろぎもしない。 時平様は、あまりにも早い死を迎えようとしている。 このままお亡くなりになるのは、あまりにも残念無念。 あなたの本当のお姿を誰が知りましょうか。 菅原道真公追放の張本人という悪の仮面、鏡に映った虚像のみ残して、このまま、逝ってしまわれるとは、、、。
はっと男は息を飲む。 突然、時平の上半身がぐいとそり上がった。 ぽっかり開いた彼の口から、胡蝶が、、、 ぬれぬれとした生まれたての蝶が、、、今、舞い上がったではないか。 幻影か。 他の者には見えぬらしい。 と、その時、時平の乾いた唇がかすかに動いた。 声は男のところまでは聞こえない。思わず膝を立てる。 「は? 何と? 鞠? 蹴鞠でございますか?」 一番近くの側近が、枕元ににじり寄って耳元で聞き返している。 「は、はて、庭の鞠は、、、どこに行ったものやら、、、。」
険しい岩肌にたたきつけられ、狂ったように砕け散る波。 ふっと、自分が赤子を抱いていることに気づく。 羊毛のマントにくるまれ、静かに瞳を閉じている幼い我が子。 青ざめこわばった顔が一瞬、ほころぶ。 女は赤子をゆっくりと大地に降ろした。 風が止み、どこからか蝶が迷い込む。 地面に置かれた赤子の額にぴたっと止まり、張りついたように動かない。 女は息を飲んで、その光景を見つめている。 蝶はゆっくりと2度、羽根を開いた。まるでその額に洗礼を施すように、、、。
「ああ、この子は今、、、 花の洗礼を受けた。」 幻の蝶がもたらした、最後の平安。 女はほっとしたような笑みを浮かべ、ぬぅっと立ち上がる。 待ちかまえたように、悪魔がタクトを振り始める。 海から立ち登る異様なリズム。 風と雨と波しぶきの、うめくような声が重なる。